Slow Luv op.4 -4-



(7)


 カフェ&バーのローズテールは、夜のバー・タイムの生演奏が売りで、曜日によって趣向が違う。ジャズであったり、クラシックであったりと色々で、それが幅広い客を呼んでいた。悦嗣は学生時代からマスターと懇意にしていて、週に一、二度のアルバイトの他に、トラブルで穴が空いたり、ヴォーカルの伴奏が必要になった時などに、助っ人で入ったりしている。今夜は後者の方で、フュージョン歌手の伴奏に駆り出された。
 ヴォーカリストのステージは二回。その合間は悦嗣も休憩となっている。カウンター席の端に腰掛けて、ウーロン茶を頼んだ。仕事中にアルコールは取らない。それに口を付けて、マンションを出る際にかかった曽和英介からの国際電話を思い出していた。
もしさく也がそっちに行ったら、すぐウィーンに戻るように言ってくれ
 昨日の夕方に楽団事務所に電話をかけてきて、明日から休むと言ったきり、姿を消したらしいのだ。リハーサルの最中にかけているとかで、英介は用件だけを言うと、さっさと切ってしまったので詳しいことはわからない。
 その電話を切った後、今度は伯母の園子から電話がかかる。昨日の話の続きだった。しつこく次回の会う日取りを決めたがって、昨日の夜から三回目の電話なのである。仕事を理由にさっさと切ったが、その後でふと…――あいつに電話したのって、昨日じゃなかったか?
 電話の内容を思い出すと、頬の辺りが熱くなる。手元のウーロン茶をあおった。
「加納? おまえ今日、ここのバイトだったのか?」
 その時、店に数人が固まって入って来た。その中に、大学の恩師・立浪教授がいた。悦嗣の姿を見止めると、近づいて来る。
「臨時。先生は? 若いヤツらと一緒なんですか?」
 悦嗣は席についた立浪の連れらしい面子を窺った。彼らはゼミの学生で、新年会の二次会だと立浪は答えた。「それより」と、彼はぐるりと店を見回し、
「中原君は? 一緒じゃないのか?」
と尋ねた。
「え? 中原?」
 行方が知れないさく也の名前が出て、悦嗣は逆に聞き返した。
「おまえの所に行くって言ってたけど。会ってないのか?」
 立浪はさく也が夕方に、自分を訪ねて月島芸術大学へ来たと話した。
「携帯電話を忘れて来たと言ってた。月島芸術大学くらいしかわからなくて、光栄にも私のことを思い出してくれたらしいよ。おまえの携帯と自宅に電話を入れたんだが、出なかったな」
 連絡がつくまでここにいれば良いと言う立浪を断って、さく也は大学を去ったらしい。ちょうど今日は学生オーケストラの練習日だったから、時間潰しに聴いて行ってくれないかと言う思惑は外れたと立浪は笑ったが、悦嗣の耳には入らなかった。
「それ、何時だった?」
「そうだな、六時前だったかな」
 更に彼の話は続いていたが、悦嗣は無視してピアノを弾く間は外している腕時計を、ズボンのポケットから取り出した。午後九時半を回ったところだ。ステージは十時からの一回が残っている。これはどうしても抜けられない。どう見積もっても、自分のマンションに帰りつくのは十一時を超えてしまうだろう。留守だとわかったら、とりあえずはホテルに戻るかも知れない。
 悦嗣は手の中の腕時計を握り締めた。




(8)


 通路の手すりに胸を凭せて、さく也は夜の街を見下ろしていた。過ぎる風はコートの襟を立てても、首周りに冷たさを残す。それも慣れてしまった。
 そう言えば、以前にもこうして外気に晒されながら、彼を待ったことがあったな…と、さく也は思い出していた。
 あの時は食事の約束がキャンセルされて、来るはずがないとわかっていた。それなのに初めて誘われたことが嬉しくて、待ち合わせの場所に行ったのだ。春とは名ばかりの寒い夜だった。暇潰しのスコアを持つ手が冷たかった。何時間か経って、用事が早く終わったからと連絡があり――やって来た加納悦嗣は、キスをくれた。冷えた身体が、一瞬にして温まったことを覚えている。
 あのキスの意味は、今もわからない。兄弟にするようなmouth to mouthだから、挨拶程度だったとも取れる。それでもさく也は、その感触を忘れられなかった。
 今日は何の連絡もせずに来てしまった。もしかしたら旅行に出かけていて、帰って来ないかも知れない。しかしどこかにホテルを取って出直すと言う考えは、さく也には浮かばなかった。
――会いたい
 ただ会いたいだけだ。会って、やさしい声を聞きたいだけだ。凍えたさく也に、「やれやれ」と言って微笑みかけて欲しいだけだ。
 ただ…ただ会いたいだけだ。




 いつもならバックで停める駐車スペースに頭から突っ込んで、悦嗣は車を降りた。ドアを乱暴に閉めた音が駐車場内に響き渡るのを背に、悦嗣はマンションにエントランスに向かって駆け出した。
 エレベーターに飛び込むと、六階と『閉』のボタンを押す。ゆっくりとした浮遊感で昇るエレベーターがもどかしく、ドアが開くや否や、自分の部屋に向かって走った。
 冷気が痛い。日中、雪がチラついたくらいに今日は寒かった。夜になって更に気温が下がったように思う。この寒さの中、彼は待っているだろうか? ローズテールで帰り着く時間を計算した時には、きっとホテルにでも戻っていると自分に言い聞かせた悦嗣だが、もしさく也がここまで来たのだとしたら、待っているだろうという考えは捨てきれなかった。
 そしてさく也は――やはり待っていた。
「中原!」


 さく也は自分を呼ぶ声に振り返った。加納悦嗣が走ってくるのが見えた。見る見る距離は縮まって、目の前に彼が立つ。
「どうしたんだ、いったい。エースケから電話が来たぞ」
 白い息が悦嗣の口から漏れる。さく也はしばらくその息に見とれていた。


「中原?」
「電話、もらって」
「昨日、俺がしたやつか?」
「声を聞いたら、会いたくなったから」
 さく也の息も白い。寒さのせいで言葉は震えているが、相変わらずの表情の乏しい声と表情で、何の照れもなく答えた。
 去年の春、キャンセルされたはずの待ち合わせ場所で、一人ベンチに座っていた彼を思い出す。その姿を何時間後かに見つけてしまった悦嗣は、電話せずにはいられなかった。離れた所で、自分からの電話を嬉しそうに受けるさく也の様子を見ていた。可愛く思って、だからキスをした。抱きしめたい衝動を抑えたあの時―――すでに自分は惹かれていたのだ 
 悦嗣はさく也を見つめた。それから、抱きしめる。頬にあたる髪までも冷たかった。それを感じて、尚更に強く抱きしめた。


 腕の中のさく也は動けなかった。
 温かい。タバコの匂いのする胸は、間違いなく悦嗣の物で温かかった。
 自分を抱きしめてくれている。
 彼の肩先に頬を擦り付けるようにして、さく也は目を閉じた。


 さく也が自分に身体を預けたことを、悦嗣は感じた。背中に回された彼の手が、躊躇いがちにコートを掴む。
 口元にはさく也の耳。悦嗣はそれに囁いた。
「好きだよ」
 さく也が顔を上げる。心持ち見開いた目に、複雑な表情が浮かんだ。
「…なに?」
と問い返すために動く唇に、答える代わりに口づける。
 凍えた唇を温める。長く、長く。目元に、頬に、こめかみに、そしてまた唇に戻って、悦嗣は愛おしむようにキスをした。


 彼の唇の熱は、さく也の体を温めてくれた。目元から、頬から、こめかみから、温かさが広がって行く。そして唇に戻った深くやさしいキスは、眩暈を感じるほどに甘い。


 カクリ…と、さく也の膝の力が抜けた。悦嗣は腰に回した腕で支える。唇を離してさく也を見ると、耳まで赤くなっていた。
「中に入ろう」
 一度、きつく抱きしめて悦嗣が言うと、さく也は目を伏せて「うん」と答えた。






 その後―――
 加納悦嗣は母のピアノ教室を継いだ。
「エツ兄がぁ?」
「後継ぎ目当てで、見合い話を持って来られても困るからな」
 何度か持ち込まれる見合いの相手が、揃いも揃って音大・芸大卒だったから、律子の意思が少なからず働いていることを感じ取ってのことだった。
 子供の頃から多少なりとも期待をかけてくれて、月島芸大まで出してもらったにも関わらず、結局、母の期待に添うことが出来なかった悦嗣の、せめてもの親孝行と言ったところだ。孫の顔も見せられないことだし。
 とは言え、調律の仕事が主であることには変わりなかった。いつの間にか『和解』したユアン・グリフィスが悦嗣を専任で使い、その噂を聞いた他のピアニストからも声がかかるようになって、請われれば苦手な飛行機を乗り継ぎ、海外の仕事先にも出向くようになっていった。
 その他に、発足されたばかりの市民オーケストラに鍵盤奏者で参加、その音楽センスを買われて練習指揮者の一人となり、気がついて見れば悦嗣は、音楽の中で生活するようになっていた。
 中原さく也はWフィルをクビになることなく、それから四年、在籍した。その間にあらゆる国際コンクールの栄冠を総なめにして、ソリスト・デビューを果たしたのである。それは悦嗣との遠距離恋愛に我慢が出来なくなり、自由の利く身になりたかったからなのだが、ソリストになったらなったで、一年の半分は演奏旅行の為に日本を離れなければならず、本人の思うほどに状況は変わらなかった。日本にいる間は、悦嗣が所属する市民オーケストラの一員として練習に参加したり――これは団員をひどく驚かせ、当然、コンサート・マスターを…と言う話になったが断った――、かのう音楽教室の特別レッスンを引き受けたりしたが、悦嗣絡みの仕事以外はオフを理由に受けなかった。
 曽和英介はさく也より一足先にWフィルを退団、日本に戻ってN響に入団した。知らない間に元妻の小夜子と復縁していて、悦嗣を驚かせた。
 さく也との事を知った時、この親友は別段驚いた様子を見せなかった。
「言っただろう? ゲイはすでに一般的だって。芸術系には珍しくないし。周りに結構多いから、もう慣れっこだよ。それに俺の事を過去形で言った時から、こうなるってわかってた」
と、あの最強の笑顔で言った。英介への想いを、過去形で語ったことがあったろうかと、記憶を総動員する悦嗣に、「仙台の帰りさ」と彼はまた笑った。夢だと思っていた仙台音楽祭の帰りの新幹線での『告白』は、やはり現実のことだったのだと、悦嗣は赤面するしかなかった。
 傷心のユアン・グリフィスはさく也の恋が成就したことを知ると、おとなしく身を引いた。以後は友人として、悦嗣とも親しく出来るように努力する。調律の腕は初めから買っていて、日本のみならずアメリカのリサイタルにまで呼びつけるようになった。悦嗣の取り成しでチャリティ形式のみと言う条件つきながら、さく也とのデュオも実現する。やがてさく也の弟(二卵性の双子)に一目惚れし、またも追いまわすことになるのだが、それはまた別の話。


『とっとと位置につきやがれ』


 あのアンサンブル・コンサートから七年後の十月、加納家の末っ子・夏季が結婚した。
 秋晴れの空に向かって花嫁が投げるブーケは、差し出される女友達の手を通り越す。ゆるやかな弧を描いて落ちた先は、悦嗣と英介の間に立つさく也の腕の中。周りが沸いて、英介が笑う。さく也が自分の手元の場違いなブーケを不思議そうに見つめ、その様子を見て悦嗣もまた笑った。
 花嫁が両手をブンブン振って、
「ごめーん、投げてー」
と能天気に叫ぶので、さく也は華やかな一群に渡るように投げ返した。受け取るに相応しい人間の手に、今度こそブーケは落ち着いて、人々の関心もそちらに移って行った。
「もらっておけば良かったのに」
 英介が冗談めかして言うと、さく也は「いらない」と簡潔に答えた。
「情緒の無いヤツだな」
 彼らしい物言いに、悦嗣が苦笑した。
 厳かな儀式から解放された新郎新婦を人々が囲んでいる。それを見ていたさく也は、悦嗣の言葉に振り返った。
 それから、
「もう神様に誓った人がいるから」
と、ふんわり微笑んだ。




                                  The end 
(2006.2.19)
                                            


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